『川染喜弘、4日間連続Ultimate avant-garde Sound.performance art festival at 多摩美術大学スタジオ』配布パンフレット

はじめに

 本文は『川染喜弘、4日間連続、Ultimate avant-garde Sound. performance art festival at 多摩美術大学スタジオ』という、合計32時間に渡る川染喜弘のパフォーマンスイベントのパンフレットとして書かれた。川染喜弘という存在を知るために、まずは川染喜弘によって書かれた、彼が様々な場所へ発信している彼自身のプロフィールを見てみよう。

川染喜弘プロフィール→LO-FI、アヴァンギャルドサウンドパフォーマンスアーティスト。 前衛芸術家。 何でも楽器として演奏しています。サウンドスケープの概念を大事にしています。波の音、電子レンジの音、氷の音、何でもです。 存在、身体表現をも作品、演奏行為と捉え表現。 過去のサウンドインスタレーションとして、雨による木琴演奏etc。円盤LABEL等よりリリース有り。http://mixi.jp/show_friend.pl?id=8316988 音源作品をUPしました。どんどんUPしていこうかなあと思っております。LIVE作品と、かなり異なりますが。→http://www.myspace.com/yoshihirokawasome 僕のliveは一見、小さすぎるコンセプトだったり、稚拙に見えたり、情けなく見えたりするかも分かりませんがその中に存在する真の芸術を確認しにきて下さい。 小さすぎるコンセプトの中に存在する宇宙を! 実はとても難解な表現をやっています。 天体望遠鏡から覗く宇宙より、顕微鏡から覗く宇宙を!究極のサウンドパフォーマンスアートを、見に来て下さい。 この文面でさえ、作品でも有ります。 何かを感じた方は、是非、LIVEに足を運んで下さい。 僕の作品は、「聴く」、「見る」、以外に「感じる」事が大事なのです。それは、音にも反映されます。過去にも、未来にも、芸術史上、本当に究極のliveをやります。 バンド歴→losapson?label、los apson?の店長のもう1つのレーベル、sexy label等より、リリースの有るcannibalism gandhi bandのメンバー。 そして、円盤labelより、live videoや、live dvd等のリリースの有る(音がバンド名)のメンバー。 現在は、ソロに絞って活動中。
(2007年11月現在の、川染喜弘によるプロフィール)


 このプロフィール以上に雄弁な川染喜弘論が果たして存在するのだろうか。また、川染喜弘本人以上に川染喜弘を精確に伝えうる媒体が果たして存在するのだろうか。僕は二年以上に渡り、川染喜弘の活動を見てきたが、これまで一度も川染喜弘に言及する文章を書いたことがない。それは、前述した二つの問いが常に僕につきまとっていたためである。
 今回のイベントは川染喜弘という存在そのものを提示するために開催される。一日8時間、4日続けて川染喜弘を体験する。この段階で『川染喜弘論』は完成してしまうと僕は考えているのだが、それではあまりにも暴力的すぎるという判断から、こうして文章を添える次第である。
 本文は、川染喜弘という一人の芸術家を考察する。川染喜弘の名前が出てこない文章でさえ、展開された思索のきっかけのそのほとんどが彼から与えられているという事をあらかじめ記しておこう。
 川染喜弘を一人でも多くの人に経験して頂きたい。その一心でイベントが開催され、この文章も書かれている。本文は、川染喜弘を一つのイメージに限定するものではない。これは、僕の視点から捉えた、ある一つの川染喜弘像でしかない。


限りなく稚拙で情けない川染喜弘の身体

 1 川染喜弘について

 川染喜弘は1977年に四国で生まれ、90年代の後半に上京し、本格的に音楽活動を開始する。彼は正統な美術教育や音楽教育を受けていない。彼が十代に好んだ音楽は主にJ-popであり、彼はJ-popミュージシャンになることを夢見て上京している。その彼が、現在アヴァンギャルドサウンドパフォーマンスアーティストと自らを称して活動している事実は、それだけでとても興味深い(日本的だ)。
 川染喜弘は、過去に行われた多くの歴史的営みを誠実に受け止めた上で、非常に大らかな態度で演奏行為をしていると僕にはうつる。彼は、過去にあった事を避けるのではなく、むしろ肯定的に受け入れ、自分のフィルターを通して実践していく。それが使い古された技法であるとか、一度登場した概念であるからといって、それを使ってはいけないと誰かに決定されたわけではない。川染喜弘が行っている表現とは、歴史が築いてきた表現方法に対し、彼自身の身体感覚を通して、新たなフォルムを与えていく仕事であると僕は考えている。
 川染喜弘の表現のある部分が、過去に起こったいくつかの芸術と似ているということはあるだろう。だが、それが単なる反復であるとは僕には到底思えない。歴史が変化するに伴って、常識やコードもまた変化するのだ。僕は、芸術におけるジャンル、区分というものは、ときに、一つの時代を名指す固有名詞でしかない場合がある、と考えている。芸術の指向する目標が同じであれ、時代の中で人々の生活や常識などが変化してゆく状況下で、反復は果たして単なる焼き直しといえるのだろうか。芸術的営為を行う時代が違うとき、それを行う身体性もまた違う、そして、その時代と身体が違うということが非常に重要なことだと僕は考えている。
 川染喜弘の場合、20世紀に起こった様々な芸術活動のいくつもの潮流が、最終的に交わる終着点にいるかのような複雑な様相を示しているように僕は思う。川染喜弘の表現活動を考察していく過程で、20世紀に起こったいくつかの重要な芸術の歴史を参照していく必要があるだろう。その際、僕は川染喜弘と歴史を比べて、どちらか一方が良いと決めるつもりはない。「川染喜弘が誰それの影響を受けている/剽窃に過ぎない」などと指摘する事も、本文の目的ではない。全ての現代人が歴史の系譜の中に生きているのであって、歴史の参照はどうしても避けられないだろう。しかし、僕が最終的に眼を向ける対象は歴史ではなく、現在生きている川染喜弘という芸術家の姿であるべきだろう。
 現代に、表現行為を営む。ただそれだけのことに、実は数多くの困難が付きまとっていると僕は感じている。あらゆる方法論が出尽くしてしまった(ということになっている)現代において、どのような方法で表現をしていけばいいのか。その不自由さの中で、身体をさらけだしながら演奏を行う川染喜弘について考えるという事は、現代について考えるという事に等しいのではないかと僕には思えてならない。
 芸術には、身体へのまなざしの変容史が伴っていると僕は考えている。芸術にもし新しさが見出されるならば、そこには身体に対するまなざしの変容が起こっているのではないか。人類の誕生以来、常に人間存在の確固たる証拠としてそびえ立つ身体、その身体は、どのようなまなざしを注がれてきたのだろうか。


2 身体をさらけだす川染喜弘

 川染喜弘はパフォーマンスが開始されると同時に、彼自身の身体をさらけだし、「この身体をただ能動的に見るだけ」で評価するべきだと主張し続けている。表面的には他人と寸分変わらない身体を提示し、「究極の芸術だと思い込んで見ろ」と彼は言っているのだ。彼のその姿勢には、現代の芸術を見るためには「ただその身体を見る」だけで事足りてしまうのではないか、と僕に思わせる力がある。しかし、川染喜弘の身体そのものを芸術作品と見るためには、果たしてどのようなまなざしが必要とされるのだろうか。
 僕は、川染喜弘が「ただ身体を見ろ」と主張するとき、彼の身体が、現代まで綿々と続いてきた歴史が定着した「絵画」であるかのような印象を受ける。川染喜弘の身体は彼自身のものだ。川染喜弘は、彼の所持しているものの中で、それが最も素晴らしい楽器であるかのように彼自身の身体を提示する。それは彼自身による精神と肉体の鍛錬によって形作られた身体である。だが一方で、川染喜弘の身体は社会によって形作られた身体であるようにも僕には思われる。
 正直、川染喜弘の身体はとても情けなくて稚拙なものだと僕は思う。彼の身体は、アスリートのように均整の取れた身体でもなく、見せつけるために無理して鍛えられた三島由紀夫のような身体でもない。特別な民族的所作や姿勢もない。僕たちがテレビを見ながらスナック菓子を食べ、横になっているときの情けない姿勢を思い浮かべてほしい。川染喜弘は本当にその姿勢でもって僕たちの前に彼の身体を横たえているのだ。
 「究極の芸術だと思い込んで見ろ」という指示のもとに川染喜弘の情けない身体がさらされる。その身体に対し、芸術であるという能動的なまなざしを持てと川染喜弘は主張しているのだ。もし川染喜弘にそのようなまなざしを向けることができたなら、その後に展開される川染喜弘の全ての演奏を素直に、感受性を開ききった状態で享受することができるだろうと僕は考えている。彼の演奏は、すべて、その彼の情けない身体から発生する演奏である。
 川染喜弘は、そのようなまなざしを浴びていないことを即座に判断してしまうため、「もはや何もしない、ただ身体だけを見ていろ」といって身体をさらす行為を「演奏行為」として何時間も演奏してしまうということはない。彼は「客がスペクタクルやエンターテイメント性を求めている」と判断し、次から次へと大胆な(しかしとても小さい)コンセプトをもとにして行われる演奏を、矢継ぎ早に繰り出してしまう。そのジレンマもまた、皮肉だが彼の魅力だと僕は思っている。その演奏行為が、過去の芸術を基準とした固定されたまなざしに対する彼の闘いのように僕にはうつるからだ。
 その闘いとも言える演奏に、歴史に向けられた固定されたまなざしを向けるとき、彼は本当に情けなく稚拙なことを、繰り返しだらだらとやっているだけに見えるかもしれない。しかし、現代の身体は「方法論が出尽くした」とされる窮屈な言説の中で生きている。一見すると稚拙で情けなく見える彼の身体は、歴史による言説の過剰な重みに耐えながらパフォーマンスを行っているように僕には思われてならない。鑑賞者たちはその切実な身体と対峙できるまなざしをそれぞれ獲得しなければならないのではないだろうか。
 川染喜弘は現代的な自身の身体を最高の楽器として、物を叩き、声を出しながら言葉を紡ぎ、縦横無尽に体を動かしている。物を叩き、言葉を紡ぎ、体を動かす。それは原初から人間が続けてきた当たり前の行為である。全ての芸術は過去に起こった人間的営為の反復だと僕は考えている。ただ、それを行う身体の時代性だけが違うことによって、発生する思想と行動に違いが出てしまう。それだけのことが僕にとっては極めて新鮮で仕方がない。
 現代とは、現代を生きる身体の表面に刻印されているのではないだろうか。「究極の芸術だと思い込め」という川染喜弘自身の言葉によって加工された身体を彼がさらけだすとき、鑑賞者は自分たちも所持している現代の身体(特に日本人の身体)を意識的に見るという経験を得ているのではないか、と僕は考えている。


3 近代化による身体の画一化

 「現代の身体とは何か」を知るために、近代化以降、身体がどのように変容していったのかを捉え直す必要があるだろうと僕は考えている。本文中で僕が身体という言葉を使うとき、それは単に肉体を指す言葉ではない。身体の内には精神も含まれている。肉体が先か精神が先か、ではない。精神の変容は肉体に影響を与え、肉体の変容は精神に作用する。身体には肉体と精神が同居し、それらが互いに影響し合って成り立っている。身体の変容史とは、精神と肉体の変容史であると僕は考えている。眼に見える身体の形状も、もちろん変容なのだろうが、むしろ思想であるとか所作(動き、表情など)が変容する、と言い換えた方がよいかもしれない。身体とは時代に応じて思想や所作を表面に表す媒体であると僕は思う。僕は日本人である。そしてもちろん、川染喜弘も日本人である。日本人の持っている身体は、現代、どのような地点に立っているのだろうか。
 身体の近代化については、三浦雅士の『身体の零度 何が近代を成立させたか(講談社選書メチエ、1994年)』に詳しい。僕も、彼の所見に耳を傾けながら身体の近代化について考えてみるとしよう。

 極東の島国から見れば、ヨーロッパと近代はほとんど同義語だが、ヨーロッパもまたその内部で身体の変容を経験しているのである。ヨーロッパと近代とは寸分の隙なく重なりあうわけではない。むしろ逆に。日本の近代で起こったこととまったく同じことがヨーロッパ近代においても起こっていたのである。
 ヨーロッパ人の身体もまた近代化されなければならなかったのだ。(三浦雅士『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)


 近代化は日本よりも先にヨーロッパで起こった現象である。ヨーロッパで発生した近代化が、のちに輸入され、日本もまた近代化していく。明治維新以降、日本人は西欧化の一途を辿っていく。西欧化とは近代化のことであると言い換えてもよいのではないかと僕は考えている。西欧が近代化した流れのなかで、日本もまた近代化していく。西欧的な身体とは、近代的な身体であると言っていいだろう。  近代以前、人間の「身体」は自然の抑圧によって形作られていた、と三浦雅士は指摘する。近代化以前と以降の時代をまたぐ大河小説、パール?バックの『大地』を参照しながら、三浦雅士は近代以前の身体を言い表している。

 はじめて『大地』を読んだときもっとも衝撃を受けたのは、登場する人間の奇怪さだった。
 軍閥になる王虎を助けるのが兎唇(みつくち)とあばたと異様なほど太った豚殺しである。しかも登場人物の多くはその身体的な特徴で呼ばれるのだ。(略)
これを不自然というべきだろうか、自然というべきだろうか。明瞭なのは、つい最近まで、人類のほとんどはそういう状態だっただろうということだ。(略)
 不自然な身体こそ自然だったのだ。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)


このとき三浦雅士が、不自然なのか自然なのか、と問うているのは、近代化以前の身体に対し、彼が近代以降の眼差しを注いでいるためである。
 『身体の零度 何が近代を成立させたか』を読むと、近代化以前は農耕的身体、遊牧的身体、階級的身体、民族的身体等、身体性が多様に分かれていたようである。産業革命以降、人間の身体は商業、工業に適した身体性を獲得することになる。近代的な身体とは、商業、工業的身体の事である。それは職業や、民族、階級等に左右されない、極めて画一的な身体を指す。

 比喩としていえば、身体は、軍隊という工場で鋳直され、それから本物の工場へと送られたのである。やがて、軍隊に代わって、学校が、身体の工場としての役割を果たすことになる。だが、そのようにして成立した身体は、農耕民的でなかったどころか、遊牧民的でもなかったというべきだろう。あえていえば、それは産業民的だったのである。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)

 三浦雅士がいうように、身体の近代化のさきがけとなったのは軍隊である。彼は、近代化の兆候として、ユーゴン・フリーデルの『近代文化史』を紐解きながら、17世紀後半に登場したルイ14世による軍隊を挙げている。

 だが、いずれにせよ、ルイ14世の軍隊において理念として「非個性的な記号同然の」兵士が出現したことは特筆されるべきだろう。
 死は人間が身体をもった存在であることを教える最大のものであり、軍隊はその死にもっとも近いところにある組織だが、しかし、ここで成立したのは逆に、抽象的な身体とでもいうべきものなのだ。数字や記号に還元されうる抽象的な身体、自由に操作されうる抽象的な身体。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)


 ルイ14世はただ眺めるためにこのような画一的な身体を作り出した。近代化以降の商業的身体=画一的身体への変容は、ルイ14世によって実践された身体の変容の延長線上にある、と言っていいだろう。産業革命以降においては、職人による製品の個性は邪魔なものとされ、労働者によって組み立てることができる規格品が必要であった。

 大量生産が可能になるには、分業が成立しなければならない。分業が可能になるためには「互換可能な部品製造の技術」が開発されなければならない。そのためには製品が標準化され、規格化されなければならない。
 大量生産のために規格化が要請されたのか、規格化が実現したために大量生産が可能になったのか、にわかには決めがたい。だが、いずれにせよそれらのすべてが、軍隊という巨大組織の存在によって初めて可能になったことは疑いない。
 制服から武器まで、巨大軍事産業の成立を跡づけてでもいるようだが、それはほかでもない、制服や武器の規格化、標準化は、兵士の身体の規格化、標準化をうながさずにはおかないという事実があるからである。
 兵士の身体そのものをまるで鋳型にはめるように規格化し、標準化することはできない。身長や体重を瞬時に変えることはできない。だが、兵士の身体所作、表情、仕草を鋳型にはめることはできる。そして、鋳型にはめられた身体所作は、やがて同じような身体を作っていくのである。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)


 身体を変容させるには、「身体所作」「表情」「仕草」を鋳型にはめることによって可能になる、とここでは書かれている。三浦雅士は、その「身体所作」を変える鋳型の一つとして衣装を挙げている。

 衣装は身体を規制し、思想を規制する。ヨーロッパの「労働服」を採用する事はそれにふさわしい身体を採用することでもあった。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)

服装は人間の身体を包み、その形を決定付ける。農耕的身体には農耕的身体に即した服があり、遊牧的身体には遊牧的身体に即した服がある。それらは身体の特徴を際立たせる特質があったと言えるだろう。だが、軍服や労働服という規格品を着込むとき、人間の身体は非個性的かつ記号的な、匿名性を持った身体へと変容する。鋳型にはめられ思想を規制された身体は、その所作や表情をも変容させる、と三浦雅士は指摘する。

 人は、表情や仕草、動作や身ぶりを変えてゆくとき、身体そのものを、わずかにであれ決定的に変えていっているのだ。人はなにげなく笑い、なにげなく微笑む。そのなにげない仕草や表情の連続が、身体を少しずつ変えてゆくのである。身体所作の体系も、大きな意味では、身体加工のひとつだとさえいっていい。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)

 ヨーロッパに起こった近代化とは、「非個性的な記号同然の」身体の大量生産に他ならなかった。日本がのちに経験する近代化も、ヨーロッパが経験したこの画一化の繰り返しであると言っていいだろう。一つ違うとすれば、それが差し迫った事情のなかで積極的に行われたということだけだろうか。
19世紀の後進国のなかで、近代化を何よりもまず身体の問題として把握し、近代化を達成するために率先して、顔の表情を変え、身体の動作を変えたのは、ただ日本だけであったと、誇ることさえできるかもしれない。  だが、いずれにせよ、19世紀末、日本人の身体は大きく変容したことは確かなのだ。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)

 明治維新以降の日本が近代と呼ばれるのは、単に時代の呼称ではある。だが、画一化された身体の獲得に躍起になったのはまさに明治維新以降であり、日本人は西欧化の道を選んだ。日本人が築き上げてきた身体感覚は軽視され、身体は画一化されていった。身体が西欧的になるとは、肉体と精神が共に西欧的になっていくということである(しかし、西欧がすでに近代に変容してしまった以上、それは西欧化ではなくやはり近代化と呼ばれるべきであろうと僕は考える)。
 現代の日本人の身体は近代化の延長線上にいる。現代とは、生まれた瞬間から近代的身体であることが自然である時代ではないかと僕は考える。僕自身、近代に起こった大規模な身体の変容を知らずに育ってきたし、自分が日本人独自の身体を持っているという強い自覚もない。自分が日本人であることを証明するものが、法的なものと言語的なものだけでしかない、という実感が僕には強くある。
 近代化、とは全世界的な営みを同時代というレールに乗せる大規模な変革であった、と僕は考えている。そのレールの上に乗るためには、規格化された身体が必要であったのだろう。「同時代」という考え方は、西欧と東欧という二項対立のような関係性を、少しずつ消していくことに繋がったと僕は考えている。
 バックミンスター・フラーによる「宇宙船地球号」の思想が指し示すように、近代化以降にはグローバル化という概念が登場する。我々は地球という一つの村に生きている同時代人だ、という考えがそれである。しかし、近代市民社会が築き上げて、やがて発生したグローバル化とは、身体の画一化による共同体の喪失であるように僕には思えてならない。三浦雅士は以下のように指摘する。

 はじめは西ヨーロッパと北アメリカにすぎなかった。だが、少なくともその地域の人間たちは、基本的に同じような身体をもつ物として、互いに互いを比べることができるようになったのである。背広やシャツが大量に作られるようになるのも、まさに同じ時代であったことはいうまでもない。
 衣料品の大量生産は、比喩ではなく、身体の大量生産にほかならなかった。身体所作の、さらには表情の、大量生産にほかならなかったのである。むろん、事態は西ヨーロッパと北アメリカにとどまらなかった。
(中略)
 ヨーロッパは全人類の身体という広大な市場を手に入れたのだといっていい。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)


4 近代化による身体へのまなざしの登場

 三浦雅士は近代が獲得した「身体の零度」についてこのように書いている。

 裸の身体、自然のままの身体とは、したがって、ほんとうは後から見出された理念でしかない。理念でしかないその裸の身体が、しかし、いまや座標の原点すなわち身体の零度と見なされ、その原点を中心に、身体という広大な未知のひろがりが姿をあらわしたのである。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)

近代以降、同じような身体を持つものが、身体という座標、メジャーを見ることで、互いに互いを比べることができるようになった、と三浦雅士は続ける。身体へのまなざしという理念がここで登場するのである。

 ルソーの言葉を淵源とし、とりあえずは軍隊のなかに、また学校のなかに、そしてやがては工場のなかに、恐ろしいほどの勢いでひろがってゆくこの流行、すなわち体育、体操、スポーツは、そのまま身体への新しい視線にほかならなかった。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)

オリンピック(もとい運動会)は、均質な時間、空間の中で身体能力を計測することが可能になった近代に始まる、という主題が『身体の零度 何が近代を成立させたか』では繰り返し登場する。三浦雅士は、夏目漱石の「三四郎」に登場する運動会の描写の中で、三四郎の心理に計測される身体への反発を見てとり、以下のように考察する。

 身体の均質化も、身体の個性化も、同じように近代がもたらしたものなのである。均質化と個性化は相容れないように見えるが、むしろ逆だ。相補いあうのである。
 個性は差異だが、差異は計測されなければ見えてこない。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)


 近代人は、画一化した身体を手に入れると同時に、他人と自分との差異は何なのか、というまなざしを手にしてしまうのだろう。近代人は自分自身の身体を他人のように眺めることができる。他人の身体と自分の身体を比較し、ある意味では客観的に自身を眺めることができるのだ。そして、他人との差異をたよりに自己同一性を築いていく。引用した文章を僕はそのように解釈する。
 自らの身体にまなざしを向ける。そのためにまず他者の身体にまなざしを向ける。近代人の自我はまずその地点から始まっているように僕は思う。近代以降の身体にもし変容があるとすれば、それは時代に応じて変容するまなざしの角度から発生する、と僕は考えている。身体自体はあまり大きな変化をしていないのではないだろうかと僕には思われてならない。
 19世紀に発生したまなざしの一つに、「身体を一方的に見られる」というものが挙げられる。三浦雅士はなぜ男が踊らなくなったのか、という文章の中でこのように書いている。

 しかし、若者たちはたんに女を見る存在として優位に立っていたわけではない。彼らもまた、見られる存在だったのである。踊る女を一方的に見るはずの若者たちは、他方では工場労働者として雇用主に一方的に見られていたのである。
 一方的に見られる存在としての「舞姫」の誕生は、一方的に見られる存在としての労働者の、兵士の、そしてその予備軍としての生徒の誕生にほかならなかった。踊る女にせよ、見る男にせよ、まず見られる身体、監視される身体に変容しなければならなかったのである。(『身体の零度 何が近代を成立させたか』より)


 近代以降の身体へのまなざしは個人的であると同時に社会的であると僕は考えている。均質化した身体に自己を見出すまなざしと、監視という「見られる」まなざし。この二つのまなざしは、分離せずに平行して変容しつづけているのではないか。

5 パフォーマンスと身体

 20世紀芸術をもし未来派を起点に考えるならば、20世紀をパフォーマンスアートの幕開けの時代である、と考えることができるだろう。
 「我々にとって身振りは、もはや宇宙のダイナミズムの、ある停止した瞬間ではなく、明らかに恒久化されたダイナミックな感覚そのものとなるだろう。(『未来派』キャロラインティズダル/アンジェロボッチョーラ著、松田嘉子訳、パルコ出版1992年)」というマリネッティの宣言を実践するように、未来派の連中は都市の中にその身体を投げ出した。パフォーマンスは表現の新たな手段として、ロシア・アヴァンギャルド、ダダイズム、バウハウス、ジョン・ケージ、フルクサスなどに受け継がれていく。

生きた身振りは、いつも、既成の芸術の固定化に対抗するための武器として使われてきた。(『パフォーマンス 未来派から現在まで』ローズリーゴールドバーグ著 中原祐介訳 アールヴィヴァン選書1982年)

 全てのパフォーマンスがそうであるとは一概には言えないが、パフォーマンスの根底にあるものとして、「身体」を人前に提示するということが挙げられるだろう。そして、そこを基点にして見ると、パフォーマンスの手法というもの自体は開始以来ほとんど変わらず、それが行われる時代と身体だけが違うのではないか、と僕には思われてならない。
 ゴールドバーグの『パフォーマンス 未来派から現在まで』を読み、はじめに僕が感じたのは「パフォーマンスの歴史はループしている」ということだった。前述した未来派にせよロシアアヴァンギャルドにせよダダイズムにせよ、彼らのジャンル名を表す理念の実証として身体を提示しているにすぎない、という印象を僕は強く受ける。例えば、未来派による宣言書とそれの実践としての身体の提示は、のちのコンセプチュアルアートとボディアートの関係性に似ている。

 未来主義の画家たちは、彼らの考え方に観客の関心を向けさせる最も直接的な手段としてパフォーマンスを強調した。(中略)パフォーマンスは、大衆の自己満足を粉々にする最も確実な手段だった。それは美術家を、美術家による演劇という新形式を発展させる「創造者」にすると同時に、詩人や画家あるいはパフォーマーといった区別を一掃した「芸術作品」にもすることの保証を美術家に与えるものだった。次々と出される宣言文は、こうした意図を鮮明にした。(『パフォーマンス 未来派から現在まで』より未来派の項)

コンセプチュアルアートというのは物体という形式による表現でなく、時間、空間、そして物質の「経験」を意味するものであり、肉体は最も直接的な表現媒体となった。したがって、パフォーマンスは芸術の概念を物質化するのに最も理想的な手段であり、多くの芸術論に対応する実践でもあった。(『パフォーマンス 未来派から現在まで』より概念の芸術の項)


 僕は、この二つが似ているからダメだとか進歩がないだとか言いたいわけではない。ただ、パフォーマンスという表現が、身体を直接使って自らの立場を実証するということを常に行っている分野なのではないか、と問い直したいだけである。ある概念を実証するためには、どこか、身体がリスクを負わなければならないという側面があるように僕は思う。その有効な手段として、パフォーマンスというものがあり、その現場ではつねに身体がさらされている、という考えが僕にはある。身体自身が視点の設定の変容でしかないように、身体を使用するパフォーマンスという芸術も、またそれ自体が変化するものではないと僕は考えている。

6 身体へのまなざし

 なぜ20世紀にパフォーマンスが芸術として隆盛したのかと考えるとき、僕には、近代に成立した身体へのまなざしが大きく関わっているように思われてならない。
 パフォーマンスを見る観客には身体を眺めるまなざしがあり、また、パフォーマンスを行うパフォーマーもまた彼自身の身体を眺めている。そして、人前にさらされる身体とは、まさに監視というまなざしにさらされている身体ではないだろうか。
 もし、パフォーマンスアートに新しさが見出されるのであれば、それこそが「時代がどのように身体を見ているのか」という尺度になるのではないかと僕は考えている。鴻英良の『二十世紀劇場(朝日新聞社1998年)』はパフォーマンス論ではないが、身体へのまなざしの変容を軸に20世紀におこった芸術に対する考察を行っている。
 たとえば、鴻英良は60年代の女性の裸体を「聖なる肉体」、80年代の女性の裸体を「猥褻な肉体」と分け隔てている。この二つの見方は、「女性性とは見られるということだ」という基本の中で、時代によってそのまなざしが変容していることを示唆している。ここでは身体における「肉体」と「皮膚」の印象の違いについても平行して述べられている。
 まず鴻英良はデュシャンの遺作『与えられたとせよ』を考察している。これは覗き穴から豚の皮を張られた少女の石膏像を見る、という作品だ。これに対し、鴻英良は「そもそも女性は見られるためのイメージとしてしか存在できない」という視点を設定する。そして、「このような理論が提示された以上、本当に女性は受動的なイメージでしかありえないのかという疑問も喚起されるだろうし、どの程度に受動的なイメージとして描かれてきたのか」という関心にも繋がる。そのなかで彼は「見る対象を支配する機能」と「見られる対象」の女性性について述べている。  鴻英良はベーコンの絵画やアルトーの残酷における身体性を「生命力」のメタファーとして見ている。そのような身体性に対して「60年代的な肉体である」と彼は書く。そして、80年代の身体性に対しては「われわれの皮膚が救いがたいのは、この力が奪いとられているから」である、と続けているのだ。
 そして、彼は女性性における“見られるということ”の変容を、この身体観をもとに導きだしている。彼は、生命力の発露としての肉体を“聖なる肉体”として捉え、力を奪われた皮膚としての肉体を、ポルノグラフィに似た“猥褻な肉体”として捉えるのだ。

 皮膚そのものが意識されるようになるためには、まずはそれがまなざされなければならない。それがどのようにまなざされているのかが構造的に自覚されてなくてはならない。そうした自覚がないときには、肉体はまったく違ったものとしてわれわれの前にあったのだし、その機能もまったく違ったものとしてあったのである。(『二十世紀劇場』より)

身体へのまなざしが変容するとき、身体の印象が変容するということを表す興味深い文章であると僕は思う。変容しているのは身体そのものではなく、身体をどのように見るかという視点の位置にほかならないのである。
 パフォーマンスアートと呼ばれる一連の営みは、基本的に身体を人前にさらすことで成立する。パフォーマーはなにも奇をてらってパフォーマンスをしているのではない。「作品制作の基礎となるさまざまな形式的あるいは概念上の発想を活性化する方法(『パフォーマンス 未来派から現在へ』)」として彼らはその身体を使用するのだ。
 前述したようにパフォーマンスアートは、過去の歴史によって固定された価値観に対抗する武器として敢行された。パフォーマンスアートが、身体を伴った表現というよりも、身体そのものを提示する側面を持っていることが僕には非常に興味深い。

「身体をどう見るか」という身体の規定は、その社会が「人間をどのように考えているか」、それを明確に示す。すなわち、身体規定は人間規定の一部となっている。ところが、この国では、後で述べるように、心身一元である。したがって、身体規定は、ほとんど人間規定と表裏一体になってしまう。この社会では、人間=表であり、身体=裏である。それが私の結論である。だからこそ、「人間=身体および社会」なのである。現在でもそうであり、歴史的にもそうだった。(『日本人の身体観』養老孟司 日経ビジネス文庫1996年)

 パフォーマンスアートにおける身体の提示とは、その身体が存在する社会そのものの提示にほかならないのではないだろうか。

7 限りなく稚拙で情けない川染喜弘の身体

 川染喜弘による身体の提示も、僕には川染喜弘が存在する社会=現代そのものの提示であるように見える。パフォーマンスの開始と同時に、彼は限りなく稚拙で情けない身体を横たえる。そして、その身体を「究極の芸術作品である」と思い込んで見るように指示するのだ。川染喜弘の身体そのものが作品として評価されるために、彼は過剰な身振りによって固定概念を破壊しなければならない。彼自身の理念を説明しなければならない。
 川染喜弘はその身体を鑑賞者たちの前に開いている。最も聡明な人だけが最も愚かな顔を表現することができるように、彼は最も情けないポーズや表情で観客とのコミュニケーションを試みている。そのコミュニケーションの仕方が一見稚拙すぎるために、川染喜弘を正面から直視できる人が少ないのではないかと僕は考えている。まなざしの前に横たわる川染喜弘は、現代の身体そのものではないだろうか。  ゴールドバーグは、「生きた身振りは、いつも、既成の芸術の固定化に対抗するための武器として使われてきた」と言う。なぜ既成の芸術に対抗するかたちでパフォーマンスは身体を使わなければならなかったのか。そこには、つねに「身体と向き合わねばならない」という問題が孕まれていると僕は考える。
 近代化によって引き起こされた身体の変容から100年以上の時がたち、身体はその100年以上もの間、多様なまなざしにさらされて変化しつづけてきた。身体には歴史が刻印されていると僕は思う。現代の身体は、20世紀のまなざしを全て浴びたあとの身体であるとはいえないだろうか。
 現代に表現活動をする窮屈さは、膨大な量の歴史がすでに身体に書き込まれてしまっている地点を出発点にしていることが原因であると僕は考えている。身体にはどのようにも書き込みができる。しかし、方法論の実践の中で、新しい書き込みをするスペースが果たして現代の身体には残されているのだろうか。
 川染喜弘による身体の提示は「もはや新しい方法などない」と居直っているかのように、僕には見える。それはしかし、芸術に対する放棄ではなく、身体がすでに大量の歴史を孕んでいることを最も率直な形で打ち出しているのだと僕は言いたいのである。僕は、川染喜弘の身体、および彼の演奏行為の中から、20世紀芸術の膨大な遺産を見てとる。川染喜弘は非常におおらかに、身体にまつわる歴史的言説から、彼自身の身体を解放しているのだ、と僕には思われてならない。
 自然な身体、というもっとも人工的で不自然な身体と、それについて向けられてきたまなざしの変容史。それはある意味では非常に滑稽な歴史だったのではないか、と僕は考えている。川染喜弘が稚拙で情けない身体をさらけだすとき、そこに横たわっているのは、近代化によって作り出され、あらゆる視線を浴びてきた不自由な身体なのではないだろうか。

 人間が自らの生と生の環境とを改善するために自然を改造する力を、広い意味でのart(仕業)という。そのなかでも特に芸術とは、予め定まった特定の目的に鎖されることなく、技術的な困難を克服し常に現状を超え出てゆこうとする精神の冒険性に根ざし、美的コミュニケーションを指向する活動である。(『美学事典』佐々木健一 東京大学出版社1995年)

 20世紀は、まなざしが身体を改造する時代だったのではないだろうか。まさしく川染喜弘は、「この身体を究極の芸術と思い込め」という彼自身の言葉によって彼の身体を改造している、と僕は考える。川染喜弘はいま、身体をきっかけに現状を超え出てゆこうとしている最中にいるのではないだろうか。


参考文献
三浦雅士『身体の零度 何が近代を成立させたか』講談社選書メチエ、1994年
ローズリーゴールドバーグ著中原祐介訳『パフォーマンス 未来派から現在まで』アールヴィヴァン選書1982年
キャロラインティズダル/アンジェロボッチョーラ著、松田嘉子訳『未来派』パルコ出版1992年
鴻英良『二十世紀劇場』朝日新聞社1998年
養老孟司『日本人の身体観』日経ビジネス文庫1996年
佐々木健一『美学事典』東京大学出版社1995年




川染喜弘という〈音楽〉――作曲、存在、現場

何でも楽器として演奏しています。サウンドスケープの概念を大事にしています。波の音、電子レンジの音、氷の音、何でもです。存在、身体表現をも作品、演奏行為と捉え表現。
(川染喜弘のプロフィールより)
「ていうか、家にいるだけで評価してほしい。家でだらっとしているだけでホントはもう僕、究極の作品、演奏なんです」
(川染喜弘2万字インタビューより)


 川染喜弘は彼の存在をも演奏行為と捉え表現している。彼の演奏は、いつ始まり、いつ終わるのだろうか。もし、存在をも演奏行為であるとするならば、彼の演奏は生と死の間にあるということになる。演奏は、彼が存在する事を止めるそのとき初めて終止符が打たれるだろう。川染喜弘は、「自分が生まれてから死ぬまでの全ての時間を括弧でくくる」という作曲をしてしまったということになる。彼の人生は、彼が作曲してしまったこの「存在そのものを演奏行為とする」という命題に捧げられている、とさえ僕には思える。この曲は、彼が一生をかけて完成させなければならない楽曲である。だから彼は、現在も演奏の最中にいる。

 ジョン・ケージは1952年に『4分33秒』を作曲している。そのタイトルが示す様に、この楽曲は『4分33秒』という時間を体験する音楽である。演奏者に与えられる楽譜は「第1楽章休み 第2楽章休み 第3楽章 休み」と書かれた指示書だ。ピアニストが壇上にあがり、ピアノの前に腰掛ける。ピアニストは楽譜に書かれている指示にしたがって、ピアノの蓋を開け閉めし、演奏を終了する、というものだ。演奏者は音を出さない。会場は沈黙が支配する。デヴィッド・チュードアによる初演の演奏時間である「4分33秒」がそのまま曲名とされた。
 この曲は沈黙の曲として有名であるが、沈黙であることと同等に革命的な事実が一つ挙げられるだろう。それは、ケージが始まりと終わりだけを設定する行為を「作曲」とした事である。『4分33秒』を作曲する事によって、ケージは括弧の中に音を閉じ込める試みを行った。
 音楽には始まりと終わりがある。それがなければ、「音」は「音」そのものであり、独立した状態にある。「音」は、始まりと終わりという括弧に括られることによって、意識的に聴かれる事になる。「音」同士は初めから関係している、というわけではない。音楽は「音」と「音」を結びつける営みだ。本来無関係であった音を結びつけるのは人間の想像力であると僕は考えている。作曲は、ある方法でもって「音」を秩序付けるための構造を作り出す。演奏行為は、構造化された音を解放し、身体を使って現前させていく一連の行為だ。演奏行為によって「音」と「音」の間には運動性が発生する。音楽は運動体であると僕は思う。音の関係性が途絶える時、音楽は停止する。受け手は、「音」と「音」の隙間に流れる運動に想像力を働きかけ、音楽を享受する。音楽は立ち上がってから消えてゆくまでの時間の経験である。そこには作曲行為によって、括弧にくくられ凝縮された時間が存在している。
 『4分33秒』が演奏されている間、会場内外には、ピアニストが座る椅子の軋み、沈黙に耐えかねた聴衆の咳き込みや衣擦れ、外界を飛び交う鳥の声、木々のざわめきなど、雑多な音で溢れ返っている。『4分33秒』が演奏されている間、人が聴くのは世界に存在している無関係な音と音との連続である。それらは、始まりと終わりだけが設定されることによって存在を際立たせられるという構造を持つ。演奏行為が終わってしまえば、おそらく意識的に音を聴くことをやめてしまう聴衆がほとんどだろう。
 音楽は始まりと終わりを設定するだけで発生する。そこには作曲という営み、演奏という営み、そして聴取という営みが、三位一体となって行われている。だが、これはケージに限った話ではない。ケージは西欧音楽の流れの中で、この音楽の構造をむき出しにした革命児の一人として引用したに過ぎない。この世の音楽は、作曲者によって、演奏者によって、そして、音を聴く全ての人間によって、開始と終了が決定されて発生する運動である、と僕は考えている。
 勿論、ケージを引用した事に恣意的な部分が一切ないわけではない。ケージの音楽はいわば、「音楽とは何か?」という問題を聴衆に突きつける、メタ音楽である(その音楽は、西欧音楽の持っていた審美的かつ権威的な状態をひっくり返す事に成功する)。「何が音楽なのか、何が音なのか(あるいは、どこまでが)」という問題について考えることを、ケージ以降の前衛音楽は常に要求されている、と僕は思う。

 川染喜弘は、『(音がバンド名)企画』という定期演奏会を、(音がバンド名)のメンバーである小林亮平(別名ツポールヌ)と共に主催している。(音がバンド名)について説明しておこう。(音がバンド名)は、改造したテープレコーダーのヘッド部分で磁気テープを擦った際に発生する「音」が彼ら自身の「名前」である、というコンセプトを持つサウンドアート的バンドだ。彼らは自己紹介をする為に、毎回磁気テープと改造テープレコーダーを用意し「では僕らのバンド名を……」といってテープを擦り、電子音を発生させる。その際に発生する、テープノイズ、その「音」そのものが彼らの名前なのである。僕は、一度彼らが「バンド名」を家に忘れてきてしまったパフォーマンスに立ち会っており、その時は「今日は、バンド名はなしで」という挨拶でパフォーマンスが開始された。僕は、あの前衛的な瞬間を今も鮮明に覚えている。
 「(音がバンド名)企画」は、現在、それぞれのメンバー、川染喜弘と小林亮平のソロ演奏を中心に据えて行われている。僕が知る限り、この「(音がバンド名)企画」は最も激しい時期には週に一度という頻度で開催されていた。この企画はやがて隔週になり、月に一度にまで減ったが、終わることなく2007年末の現在まで継続している。彼らは、企画以外でも招聘されて様々な場所で数多くの演奏活動を行っている。川染喜弘と小林亮平は毎回の演奏で、必ず違う内容の演奏をする。大まかな手法の反復や、繰り返し現れる主題などはあるとはいえ、時と場に応じて、身体と言語による激しい即興表現を展開し、一度行ったパフォーマンスはその場で捨て去って進み続けている。本文は川染喜弘について書くことが目的であるので、ここではひとまず小林亮平からは離れよう(ただ、小林亮平の音楽を、僕が川染喜弘とほぼ同等に重要であると考えていることだけはしっかりと書き残しておく必要があるだろう)。

 様々な演奏家が定期的に演奏をしている。それは演奏家である者であるならば当然のことだろう。しかし、存在そのものをも演奏行為と捉えなければならない川染喜弘にとっては、定期的に演奏するという営為さえも、大きな意味を持ってしまうのではないかと僕は考えている。
 存在そのものも演奏行為。この非常にコンセプチュアルな楽曲を、もしコンセプト通りに受け止めるならば、川染喜弘はただ生きているだけでよい。食事をし、排泄をし、睡眠をしているだけでも、演奏行為が行われているということになるからだ。そこに聴衆がいなくとも、川染喜弘の存在によって、常に音楽が発生しているというコンセプトであるならば、川染喜弘はもはや何もする必要がない。川染喜弘の生死という括弧に包まれた全ての時間、全ての音が音楽作品になってしまうからだ。それにも関わらず、彼は人前に現れ、定期的にパフォーマンスを行う。なぜだろうか。
 川染喜弘は、川染喜弘という芸術家が存在するということを証明しなければならない。川染喜弘は彼自身の身体を人々の前に晒さなければならない。彼の存在が知られない、ということは、ある意味では彼が存在していない、ということに等しいからだ。彼の音楽には、「音楽とは何か」という以前に、「人が存在するということは何か」という大きな問いが含まれているように思えてならない。僕が音楽に強く惹かれるのは、人間が存在する仕組みと音楽が生成してゆく仕組み(時間の生成の仕組み)が似ているように感じられるためである。

 音楽が時間の経験であるように、人間の存在もまた時間を経験する。音楽は時間を直接体験できる芸術である。人間が存在するということも時間の経験を外しては考えられないと僕は思う。

ハイデガーが人間のことを〈現存在〉という妙な言葉で呼ぶのも、人間こそ、〈存在〉という視点の設定がおこなわれるその〈現場〉だからにほかならない。(『ハイデガーの思想』木田元 岩波新書1993年)

もし上のような視点に立つならば、川染喜弘=存在=現場という図式が成り立つのではないか、と僕には思われるのだ。

 川染喜弘は仕事をしているときも常にテープレコーダーの録音ボタンを押している、と僕に語ったことがある。また、パフォーマンス(=演奏行為)の準備中、片付け中も彼はパフォーマンスをしている。それどころか、彼は日常会話レベルで突然パフォーマンスしはじめることさえある。川染喜弘は、「生活と芸術の間に隔たりなど一切存在しない」と言わんばかりに人前で過剰に振る舞いつづける。川染喜弘が存在者として人前にその身体をさらしているとき、彼は、自分がコンセプトを抱えた一人の演奏者であるという事を特に強く自覚するのだろうと私は考えている。川染喜弘の生活は、すでに予告されるパフォーマンスの域を遥かに超えてしまっている。彼自身の言葉を見てみよう。

僕はパフォーマンスも重視していますが、これはステージ上の身体表現だけではありません。人生においての生き様、全てなのです。(川染喜弘2万字インタビューより)

 川染喜弘を川染喜弘以上に精確に伝えうる媒体は存在しない、と僕が『はじめに』で語ったのは、決して消極的な放棄ではなく、彼自身が常に動き続けている運動体であることに起因する。彼を体験するためには、彼が存在する空間に身を投じるだけで事足りる。むしろ、それ以外に彼を知覚する術はないとさえ言ってもいい。川染喜弘が存在する現場こそが音楽であると僕は考えている。そして、川染喜弘は現在も演奏行為の最中で生きているのだ。川染喜弘という音楽は、死を見つめながら変容しつづける、一人の人間のドキュメントではないだろうか。


参考文献
『川染喜弘2万字インタビュー 聴き手田口史人』 フリーペーパー2007年
木田元 『ハイデガーの思想』 岩波新書1993年



川染喜弘の演奏

 具体的に、川染喜弘が一回のパフォーマンスで何をしているのか、を見ていこう。

1、言葉による演奏
2、身ぶりによる演奏
3、楽器、非楽器による演奏
4、退屈な時間を創出させる演奏
5、機械による自動演奏
6、講義の形をとる演奏

 川染喜弘の演奏は、上に挙げた六つの要素が主になって行われていると僕は考えている。これらの要素は、その一つ一つが際立って起こる時もあれば、同時多発的に発生し、相乗効果で乱反射を起こしている時もあるだろう。この「川染喜弘の演奏」の項目では、これら六つの要素から川染喜弘を考察する。


1、言葉による演奏

---インタビューって、どんなこと聞かれる?
川染「その前になんですけど、このインタビューでの全ての言葉、これは僕のリリック(詩)、作品でも有りますので、読んで頂く方には、それを前提に読んで頂きたいです。」(『川染喜弘2万字インタビュー 聴き手田口史人〈フリーペーパー2007年〉』より)


 川染喜弘の演奏の最大の特徴の一つとして「言葉」が挙げられる。川染喜弘の眼に留まり、彼自身によって紙に書き留められた言葉が、一気呵成に発声され、発声された言葉たちは無秩序に接着していく。それは、言語によるコラージュ空間の創出であると僕は考えている。川染喜弘は自分自身が発声する言葉の全てがリリック(詩)であると定義する。文脈を無視して発声される川染喜弘の言葉は、具体詩の一種であるように僕には思われる。これを(1)としよう。
 また、川染喜弘自身によって発見されることがなければ誰も発見しないような些細な言葉を、彼は芸術的な言葉として使用する。それは、例えば、彼の母親が放った発言であるとか、コンビニエンスストアに書かれていた落書き、ポストに投函されていたチラシに書かれている文章といった、本当に些細な言葉たちだ。落書きを例にとると「何よりも大切な水、でも命の方がもっと大事」という言葉が使用されたことがあったが、彼はそれが川染喜弘のリリック(詩)であると宣言し、何度も繰り返し発声していった。これを(2)としよう。

 コラージュとはどのような性格を持っているのか。中ザワヒデキの『西洋画人列伝(NTT出版 2001年)』の中から、ピカソとデュシャンの記述をそれぞれ見てみよう。(この本は芸術家の自伝という形式を取っているため、「私」と書いている場合は、ピカソやデュシャンの一人称である)

 対象を断片にまで破壊しつくした過程は「分析的キュビズム」と呼ばれ、その極限では観念も記号化されて印刷文字や数字の導入と相成った。そして1912年、最初のパピエ?コレとコラージュを行った。パピエ・コレ(紙による糊づけ)は木目模様の紙からギターの形を切り出すなど、画材の拡張であったが、私が発案したコラージュ(糊づけ)は新聞紙の切れ端でガラス瓶を表してもよく、いわば、異質な物質同士の出会いによる既成概念への揺さぶりだった。
 現実世界でグラスにビールを注ぐとき、グラスとビールは「コラージュ」している。これをキャンバス上で行えば、画面は「もう一つの現実」となるだろう。(『西洋画人列伝』ピカソの項より)
 レディメードとは、主観はおろか、偶然性すら加味されない完璧な引き算の達成だった。最も有名かつスキャンダラスなレディメードは、1917年の『泉』である。男子用小便器を横に寝かせ、アングルの名作と同じ題をつけたのだ。
 これはキュビストが行ったコラージュの、概念における帰結だった。「便器の形をした物体(オブジェ)」と「泉という芸術的な題名」を「糊づけ」したのである。便器がトイレに置かれたまま芸術になったわけではない。「便器から便器という意味を剥奪し、芸術という文脈のもとに提示することが、芸術となった」という、自己言及を含む論理命題である。自己言及は同語反復を招くから、結局ここから芸術の語の無意味が導かれてしまっている。(『西洋画人列伝』デュシャンの項より)


 川染喜弘の手法と結びつける時、ピカソの項目で書かれている文章は(1)に適しており、デュシャンによるレディメードについての文章は(2)に適している、と僕は考えている。
 川染喜弘の発声によってコラージュされる言葉はそれぞれ異質な文脈から引っ張りだされ、衝突している。彼の演奏は、コラージュによる既成概念の揺さぶりの連続が、あまりに高速で行われるために逆に解りにくさに繋がっているという部分も見受けられる。だが、彼によって作られたリリックを全て聞き取り、処理することができたなら、聞き手は無理矢理繋げられた言葉や概念の異様な形状を体験することになるだろう。
 川染喜弘によって芸術的言語として引きずり上げられる言葉は、デュシャンによって芸術の文脈に置かれた便器のように機能すると僕は考えている。詩ではないものを詩として提示した前例として、モンティパイソンのコントがある。コントでは「来週までに10ペンス貸してくれ」という言葉が、芸術史上、過去に例のない美しい言葉として扱われ、それが文芸批評家に絶賛され、演劇として上演される様などが展開される。モンティパイソンのコントはギャグとして優れていると同時に、ある批評性も兼ね備えている。コントと音楽という違いこそあるが、川染喜弘による言語の再発見はモンティパイソンのこのコントが持つ面白さに近い、とも僕は考えている。

 川染喜弘は「音で韻を踏む」という活動を一時期盛んに行っていたこともある。これは言葉で韻を踏むのではなく、同じ言葉でありながら性格の違うものの、それぞれの音を韻として捉え、繋いでいくという演奏だ。例えば、川染喜弘の過去の演奏の中で、トータス(亀)松本という歌手の声と、ゲームの中で亀のキャラクターが踏まれる時の音が繋がれたことがある。その二つの音は、全く異質な音を持っているが、彼によってそれぞれの音の解説がなされるとき、二つの音が同じ言語(この場合、亀)によって記されている存在が発している音であることがわかる、というものだ。
 川染喜弘は、テレビゲームを投影しながら、表示されるメッセージ画面をひたすら高速で朗読するというスタイルを取ることもある。テレビゲームというものが持つ一種のノスタルジーはそれほど重要ではない。僕はこの行為を、ゲーム画面を楽譜と見立てた演奏行為であると考えている。(テレビゲームの画面は、楽譜の役割を果たすと同時に、ゲーム用に組み立てられた自動演奏が流れてくる音のオブジェでもある。)同様に、彼は漫画やチラシの文面など、ありとあらゆる言葉をもとにヴォイスパフォーマンスを行う。もちろん、思いつくまま自動初期的に言葉をつなげていくラップも展開する。

 僕は、演奏行為というものを記号を身体性でもって解放していく行為だと考えている。西欧音楽では五線譜に書かれた音符こそが楽譜に書かれた記号であり、演奏者はピアノなどの楽器を演奏して、記号を解放し音楽という運動体を現前させてゆく。
 川染喜弘の楽譜を少しだけ拝見させてもらったことがあるが、そこには大量の言葉が書き込まれていた。その隙間を縫うようにして、さらに言葉による注釈が書き込まれていた。川染喜弘にとって、音符の役割を果たしているものは言葉である。
 言語学者ソシュールの定義に従えば、言語とは記号であり、記号のシステムである。川染喜弘の楽譜とは、言語という記号が羅列された指示書である。彼の演奏には発声という身体性が常に発生している。そこには言語を「書かれているもの」から「発話されるもの」として解放していく川染喜弘の営みがあると僕は考えている。
 発声されることによってコラージュされる言葉。発声されることによって意味を剥奪される言葉。発声されることにより音を持つ言葉。川染喜弘の言葉による演奏にはつねに言葉との衝突がつきまとっているのではないだろうか。それは言葉同士の衝突でもあり、言葉と身体との衝突でもあり、記号としての言葉と発話される言葉との衝突でもある。


2、身振りによる演奏

---それは何もしないで感じろよって言ってる時もサウンドパフォーマンスアートだということ?
川染「そうです。60年代のジョンケージとかがやってた活動でシアターピースっていうのがあって、音を出さないで、演奏者が楽器に向かう動作も演奏だといってるような作品があるんですけど、それ僕が昔から思ってることに近かったんで、感銘を受けたんですけど、けっこうそれに近いかもしれないですね。」(川染喜弘2万字インタビューより)


 川染喜弘のプロフィールには、『(川染喜弘の)身体表現をも演奏行為と捉え表現』という記述がある。これは、川染喜弘が人前に身体をさらしているその間は常に演奏行為が行われているということを示唆している。
 川染喜弘が言語によるパフォーマンスを行うとき、彼は発声と同時に手足を縦横無尽に動かしている。その動きはとても文章で形容できるものではないが、彼自身のコンセプトに従うなら、その手足の動きからも音が発生している(演奏行為である)、と判断すべきだろう。

 身体の動きも含めて演奏をしていた前例として、ピアニストのグレン?グールドが挙げられるだろう。グールドの演奏を映像で見るとき、彼の卓越した演奏はもちろんのことだが、同時に彼の異様な身体の動きにも意識が向いてしまう。グールドは、極端な猫背でピアノを弾きながら、片手が空いていれば指揮をし、両手が塞がっているときは頭を大きく回転させながら演奏行為を行う(その時の表情は愉悦に浸っていて、その痙攣する彼の口の動きまで演奏行為に含まれるように思える)。また、彼自身がピアノを弾く指の動きは、下手なダンス作品よりも遥かに躍動感があり、音と音の間に存在する緊張感を際立たせる役割を果たしているように僕にはうつる。グールドの演奏を録音物で聴くときと映像で視聴するときとでは、その印象が全く違うものになってしまう。グールドの身体が鑑賞者の眼に晒されているとき、僕は、彼の身体そのものも含めて音が鳴っているという印象を強く受ける。

 たとえば、川染喜弘による片手まで指揮をするような身振りには、グールドの演奏と類似している部分が多くある。グールドの左手が指揮をしているとき、右手はピアノを弾いて音を出しているが、その宙に浮かんだ左手の指揮がまったく音を出していないなどと断言ができるのだろうか。川染喜弘は、発声をしながら物を叩いているあいだ、空いている手を縦横無尽に動かしている、また、彼は手を激しく動かしている間、体を横たえ、足を複雑に絡み合わせる動きをする。そのとき、彼の手の動きや彼の全身が生み出す姿勢は音を発していないのだろうか。三浦雅士の『考える身体(NTT出版 1999年)』に以下のような描写があり、興味深いので引用する。

 身体の与える感動は全身的なものだ。たとえば体操選手が妙技を披露するとき、人はただ単に目に見える美しさに打たれるわけではない。その呼吸、呼吸が感じさせる生命の音楽に全身が反応し感動するのだ。聾唖者もまた、音楽に感動するのはそのためだ。人はただ目で動きを楽しみ耳で響きを楽しむのではない。動きは皮膚を通して内臓にまで達する。(『考える身体』より)

 川染喜弘は、その身体性だけを抜き出して純粋化させたような身振りを行う。川染喜弘が、彼の演奏に対し「ただ単に見る、聴く以上に感じることが大事なのだ」という言葉を使うとき、恐らく彼は上で引用したような見方を望んでいるのではないか、と僕は考えている。
 ダンス表現のコンセプトを書き連ねることができてもその動き自体を文章化することができないように、川染喜弘の動きを描写することは僕にはできない。しかし、彼の身振りは適当に動かしているようには見えない。川染喜弘は常に意識的に身体を動かしながら、即興演奏の可能性を追求しているように僕にはうつる。


3、楽器、非楽器による演奏

 川染喜弘がプロフィールに書いているように、彼はこの世にあるありとあらゆるものを楽器として演奏している。彼は、手にした物を床に叩き付けたり、擦ったり、こね回したり、口に含んだり、拳を打ち付けたり、噛み付いたり、思いっきり破壊したりする。その音は手に持ったコンタクトマイクによって増幅される。
 川染喜弘はコンタクトマイクでパフォーマンスの会場を擦り続ける演奏も度々行っていた。その演奏について僕が彼に尋ねたとき、彼は「土地の持っている音を聞いているのだ(ファイナルファンタジーの風水師から着想を得た作品である)」と答えた。また、川染喜弘自身の口から、「この世にある全ての音を録音してから死にたいと思っていた」という言葉が発されたのを僕は何度か耳にしている。

 映像作家のオスカー・フィッシンガーが若年のジョン?ケージに強烈な影響を与えた言葉を見てみよう。

私が紹介されたとき、彼はこの世界にあるもの一つ一つに宿っている精霊について話し始めました。その精霊を解き放つには、ものに軽く触れ、ものから音を引き出すだけで充分だ、と彼は言いました。(『ジョン?ケージ 小鳥たちのために』青山マミ訳 青土社1982年)

川染喜弘による非楽器の演奏を見るとき、僕はいつもこの言葉を想起する。彼が行っている演奏とは、まさにこの精霊を解き放ち、音を引き出す行為ではないだろうか。
 ケージはフィッシンガーの言葉を受け、調性の音楽から離れてパーカッションへと導かれていく。以下にこの時期を振り返るケージの言葉を引用しよう。

それに続く数年の間――戦争へと向かってゆく時期ですが――どんな音が宿っているのか発見しようと、ものに触ったり、ものを鳴らしたり、響かせたりすることをやめませんでした。どんな場所であろうと、行く先々でものを聴きしらべたんです。その延長として、友達を集め、私が楽器を指定せずに書いた作品を演奏するようになりました。ただ、楽器のもつまだリストアップされていない可能性を探るために、空地やごみ捨て場、台所や居間に無限にあるはずの音源を探るためにね……。想像しうるあらゆる家具を試してみたものです。(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』より)

 パフォーマンス直前の川染喜弘と時を共にすごすのは、それだけで非常に興味深い体験だ。彼は本番前(とくに、はじめていく会場である場合)に「まだ自分が演奏した事のない物体」を探して歩き回っている。彼はケージが恐らくそうであったように、ごみ捨て場から様々ながらくたを拾い集めてはその場で床に叩き付けたり振り回したりしてその音を吟味する。ただそれだけの光景だが、僕は、その姿でさえ彼の最上級のパフォーマンスの一つだと考えている。
 非楽器を使う事に対する、ケージの言葉と川染喜弘の言葉をみてみよう。

 確かに私はその当時本当に一文無しでした。もし私がもう少し裕福だったら、もう少しありきたりな楽器を使っていたかもしれない……。
 おそらく、音楽と貧乏の間にはなんらかの関係があるんです。(中略)私はものに、ありきたりではない楽器に、それらのもつあらゆる可能性を表出させようとし続けてきたんです。(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』より)

川染「僕、子供の頃からむちゃくちゃ貧乏だったんですよ。いままでお金のことでどんだけ大変だったか。(中略)金のないところでどうやって楽しむかって言うの子供時代からずっとやってきたんで。まあ今になってもフリーターやってて状況もそんな変わってないから、金無い中でどれだけいいもんつくれるかってのにはこだわりがあって……(後略)すごいお金かけて壮大なものを作るよりも、一切、コストがかかっていないのに、凄いものを創ることの素晴らしさをもっとわかってほしいですね。」(川染喜弘2万字インタビューより)


 音楽と貧乏の間にはなんらかの関係がある、と語るケージと、貧乏の中から発想力を磨き、コストをかけずに音楽を創り続けている川染喜弘が、共にがらくたを演奏しているというのは僕にとって非常に興味深い事実だ。
 非楽器を音楽に導入する、ということは騒音を音楽に受け入れるということであると僕は考えている。ケージと同時代の音楽家に具体音楽のシェフェールがいるが、彼もまた騒音としての具体音を音楽に導入した実践者である。だが、ケージとシェフェールの間には大きな溝がある。それは受け入れた騒音に対する態度の違いだ。ケージの言葉を見てみよう。

――あなたはまったく〈具体音〉の音楽家だ。
ケージ そう言ってシェフェールを不愉快にさせないのならば、そうです。音を〈抽象化〉してしまうのは、音を音自体として聴くのでなく、音と音の間の関係を聴いて満足することなんです。いつか私が言ったように、光で音楽上の概念を表現するのと同じことですよ。(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』より)


 僕は、川染喜弘とケージを比較してどちらかが優れている、と言う目的でこの文章を書いているのではないが、やはり川染喜弘とケージは非常に似ている部分が多いように思う。川染喜弘によって非楽器が演奏される時も、僕は、聴き手としてどうしてもその音と音を関係づけてしまう事があるが、ケージの示唆に従うならば音を音自体として聴くべきなのかもしれない。事実、川染喜弘の演奏は、関係性として音が繋がっていくという感覚よりも、音が音そのものとして独立しているという印象のほうが強い。
 ケージと川染喜弘に大きな違いがあるとすれば、ものを扱う身体と時代背景が違うということが挙げられる。この二つが違うということを念頭に置かなければ、川染喜弘とケージの比較は単なる比較に終わってしまうと僕は考えている。川染喜弘が、物体の持っている音を音そのものとして解放し続けている、現代における数少ない実践者の一人であることは確かだ。


4、退屈な時間を創出させる演奏

 川染喜弘の演奏には退屈がつきまとっている。それはパフォーマンスという表現手段がもともと持ち合わせている性質にもよるのだが、その退屈な時間が同時に極めて冒険的かつ刺激的な時間である、ということは改めて書き記しておく必要があるだろう。音楽に退屈の概念を持ち込んだ人物として、真先に名前が出てくるのはエリック?サティだ。彼は一つのフレーズをゆっくりと840回繰り返すように指示をした『ヴェクサチオン』という楽曲を作曲しているが、これは、実際に演奏すると25時間にまで及ぶという。フルクサスのメンバーでもあるディック?ヒギンズはサティの反復に対し以下のように書いている。

はじめのうちは、この音楽はとても耳にはなじみやすく、それだけにきわめて不愉快な厭らしい印象を与える。しかし徐々に、聴き手の精神がもうこれ以上の不快は感じられないという状態にまでなってくると、ひじょうに奇妙な、幸せにみちた享受、享楽が始まるのである。(『退屈と危険』ディック?ヒギンズ/岩佐鉄男訳〈ユリイカ 特集パフォーマンス〉青土社1984年)
(25時間に及ぶ『ヴェクサチオン』について)
この曲は退屈だろうか?それは最初のうちだけのことである。しばらくすれば先ほどの幸福感(注?「幸せにみちた享受、享楽」のこと)が次第に高まってくる。曲が終わるころまでには、沈黙に対する感覚はすっかり麻痺し、音楽は環境になりきっていく。(『退屈と危険』より)


 川染喜弘は2007年の10月に24時間パフォーマンスを行ったばかりだが、あの時間ほど退屈であり、自分にとってかけがえのない時間はなかった。特に感動的だったのは、全ての楽器が壊れてしまったときの演奏だ。彼は一時間に渡り、絡まったコードをほぐしながら、「ヒヒーン」という鳴き声を発していた。十秒に一回程度の頻度で発される馬の鳴き声だけが会場に響き渡る。極めて静謐な演奏だったが、そこに流れる刺激的な退屈はおよそ尋常なものではなかったと僕は記憶している。
 この演奏で重要なことは彼が「ヒヒーン」という発声を止めてしまったとき、その反復が途切れてしまうことにある。何秒かに一回彼が「ヒヒーン」と発声することをある程度繰り返されることによって、数秒後に「ヒヒーン」が再びくることが予測できるようになる。予測はできるが、『彼がどの程度までしつこく「ヒヒーン」と言い続けられるか』までは予測できない(そして、予測を超えた回数の「ヒヒーン」が訪れるとき、僕は麻薬のように次の「ヒヒーン」を待っている自分を発見した)。
 この演奏は痺れをきらした一人の観客の野次によって中断されることとなったが、「ヒヒーン」という言葉だけを聴き続けていたおよそ一時間、極めて主観的な判断ではあるが、僕は時間の感覚を完全に見失っていた。

 ディック・ヒギンズは度を超えた退屈が時間を奪うということについても触れている。ジョージ?ブレクトによる、「暗闇の中で各演奏者が二つの違ったことを一度にひとつずつ行う。二つのことをやったら曲は終わる」というコンセプトを持つ作品について、ヒギンズは以下のように評している。

結果はすばらしいものであった。それは作品自体がよかったこともあるし、また作品がもう終わったのかどうか、次にいったい何が起こるのか、などとあれこれ思索しているときに、波の様にわれわれをおそってきた強さのためでもある。後でわれわれは、暗闇のなかにどのくらいの時間いたと思うかたずねられた。答えは4分から25分にまでわたっていた。実際には9分間であった。退屈は強さとの関係において、沈黙が音に対するのと同じような役割をはたしている。(『退屈と危険』より)

川染喜弘の演奏はしつこい。一つのことを執拗に追求しつづける。それは、ともすれば極めて退屈な時間だが、退屈であるからといってつまらないと決めつけてしまうのはあまりに早急であると僕は思う。川染喜弘が一つの行為を繰り返し行うとき、その繰り返しが成功に繋がるのかどうかは彼でさえも完全には把握できていない(そもそも成功とは?)(川染喜弘はプロセスを重要視するパフォーマンスアーティストである)。ふたたびヒギンズの言葉を見てみよう。

 退屈と私的芸術はこれまで示唆してきたようにたがいに関連しあっているものだが、その背後にはもうひとつ別の側面がある。それは危険ということである。作品の中に知的興奮をつくりだすためには、ニア?ミス?失敗寸前?だったという感覚がいつもなければならない。このことはつねに正しいと思われる。(中略)
今日では、作品をできるかぎり大きくしようとすることにはなんの利点もなく、したがって別な方向での挑戦が試みられるようになっている。そこでも危険の感覚は必要不可欠である。なぜなら、どんなに単純な作品でも、簡単になったら失敗するからである。そのためになおさら挑戦はひじょうに単純で、ひじょうに具体的で、ひじょうに意味深いものでありながら、簡単さを危険にさらす方向に向かっていく。(『退屈と危険』より)


川染喜弘は「限りなく小さく、一見情けなく、稚拙にみえるものの中にこそ本当の芸術は存在する」という信念のもと演奏している。彼が反復するときに選ぶ主題もまた、その信念から発生するため、限りなく小さく、一見情けないし稚拙に見える演奏である。もし、退屈と危険をヒギンズの言う通りに解釈するならば、川染喜弘は最も危険な表現をしていることになる。
 彼が壁に向かって歩き続けたときも、馬の鳴き声を模倣し続けたときも、あらゆる日常品をしつこく演奏し続けるときも、彼はつねに退屈による危険を発生させている。僕が、彼の演奏について「冒険的かつ刺激的な退屈である」と冒頭に書いたのは、彼の退屈が見事に危険を呼び込んでいるためである。彼による反復はうまくいかないときもあるが、強烈な中毒性を持った反復になる/その可能性を常に孕んでいる、と僕は考えている。


5、機械による自動演奏

 川染喜弘はカセットテープに録音した自作の電子音楽を再生しながらその音に乗せてパフォーマンスを行う。その電子音楽は毎回のパフォーマンスの度に新たに録りおろされるもので、それをもし録音作品としてアーカイブ化したら膨大な量になるだろう。彼は自宅で作られた、自分で用意した音楽(過去)と共に即興演奏をしている。僕が初めて彼を見たときは、「ヒップホップにおけるビートを追求しています」という自己紹介の後に、彼が録画したテレビ番組の音を延々流していた。彼は、ビデオに録画された映像や、テレビゲームの音などを自身のパフォーマンスのための重要な素材として使用する。彼は、本来「芸術的ではない」とされる音をパフォーマンスの場で使用し、彼自身の言葉で色をつけていく。身体性に欠けている自動演奏が、彼のパフォーマンスとのセッションによって肉付けされることで、新しいフォルムが提示されている。


6、講義の形をとる演奏

 川染喜弘の2007年の演奏で最も顕著に目立ったのは、彼自身による彼の芸術理念の解説である。彼はパフォーマンス中、隙を見ては「自分の行っている演奏がどのようなものなのか」ということをヴォイスパフォーマンスで解説する姿勢をとるようになった。「限りなく小さいコンセプトの中に本当の宇宙が存在する」という言葉や「一見情けなく見えたり稚拙に見えたりするものの中にこそ本当の芸術が存在する」という言葉を、前述した五つの要素と平行させながら何度も繰り返し発声しする。これは彼の演奏であると同時に講義でもある、と僕は考えている。
 講義と演奏を同時に行った前例にジョン・ケージが挙げられる。彼がコロンビア大学で行った講義に対し、一柳慧が語っている文章を見てみよう。

 何が私にとって衝撃的であったのか、と言えば、それは一つはレクチュアが音楽の演奏と同じように、演奏、あるいは演技を包含したものであったということと、もう一つは実際に生の音楽の演奏といっしょに提供されたことであった。この二つのことで、それは講演でありながら、通常の講演とは隔たった、あるいは通常の講演の概念を超えた出し物になっていた点である。(『音楽という営み』一柳慧 NTT出版1998年)

 川染喜弘の演奏も、このように見ることができるのではないだろうか。彼のレクチャーもまた、演奏、演技を包含している。彼は演奏中に突然一人芝居を演じたり、自己の幼少期の思い出を滔々と喋りだしたり、突如現代の音楽シーンに言及し始めることなどがある。これらのパフォーマンスは、彼による「講義の形をとる演奏」である、と考えてよいのではないだろうか。ケージの場合を見てみよう。

 ひとつずつが短く完結し独立している90の物語から成るこのレクチュアは、いわば90の話しの断片の集積といってよいものである。ストーリーの内容はさまざまであるが、主にケージと親交があった人たちとの話しが中心に語られている。ケージが深くコミットしている禅や仏教と鈴木大拙の話し、若いころ一時期ケージの師であったアーノルド・シェーンベルクに関するエピソードの数々、マッシュルームハンティング(中略)そして現代美術や現代社会に対するコメントなど、多岐にわたっていた。(『音楽という営み』より)

 川染喜弘は、最近の自身の傾向に対して「自分の音楽はジャズ音楽のように理論書が出ているわけでないので、自分で語る他ない」とライブの中で語っている。自分の表現があまりにアブストラクトすぎると判断し、彼は現在講義という形をとっている。
『川染喜弘2万字インタビュー』の中で、「川染喜弘の“理念を語る”という演奏が、ストレートな表現であると採られにくいのではないか」という質問がなされている。確かに、その可能性はあるかもしれない。だが、ここで忘れてはならないのは、川染喜弘による講義が完全に講義なのではなく、あくまでも講義の形をとる演奏である、ということであろう。

「講演=言葉によるもの」という既成概念がいかに強いものか。音楽や音や沈黙の間が、言葉の背景にあるときは許せても、ひとたびそれらが言葉と同等、あるいは言葉を凌駕する状態になったとき、人々は強い拒絶反応を示す。(『音楽という営み』より)

これを川染喜弘に書き換えるなら、「演奏=音によるもの」という既成概念がいかに強いものか、になるだろう。彼が音を凌駕して言葉を発する状態に突入しているとき、観客は彼の言葉を音楽として聴きながら、同時に身体に刷り込んでいくこともできると僕は考えている。彼の講義=演奏は全身的な体験である。


7、川染喜弘は演奏しつづけている

 これだけで川染喜弘の演奏を全て見たことにはならないが、上述した六つの要素の複合体として彼の演奏を見ることができるのではないか、と僕は考えている。繰り返しになるが、川染喜弘の音楽と20世紀に起こったいくつかの芸術や人物を引き合いに出したのは「川染喜弘の現在の活動とかつて起こった歴史のどちらが優れているのか」ということの検証ではない。また、川染喜弘のイメージをこの六つの要素に限定するために書いているのでもない。
 川染喜弘はその演奏スタイルを日々変化させている。この文章は、2007年12月現在、僕が川染喜弘から引き出した要素の考察にすぎない。川染喜弘の演奏スタイルは突然変わることが多いため、新しい項目はそのつど書き加えられるべきだろう。事実、「講義の形をとる演奏」は2007年に突如始まったし、僕が出会う前の川染喜弘が一体どのような演奏をしていたのかを、僕は伝聞でしか知らず、この身体で実際に目撃・体験したのではない。僕が川染喜弘の演奏を見逃すことができないのは、彼がつねに変化しつづける演奏家であるためなのかもしれない。


参考文献 『川染喜弘2万字インタビュー 聴き手田口史人』フリーペーパー 2007年 中ザワヒデキ『西洋画人列伝』NTT出版 2001年 三浦雅士『考える身体』NTT出版 1999年 青山マミ訳『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』青土社 1982年 『ユリイカ 特集パフォーマンス』青土社 1984年 一柳慧『音楽という営み』NTT出版 1998年


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